昭和四十八年十一月十八日 朝の御理解
御理解 第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
わが身の上におかげを受けるという事のおかげは第一は、どういうような事であろうか。私は今朝御神前で、支那料理とも西洋料理ともつかないケチャップのようなもの、あんこのようなものが、こうあえたようなこう、料理を頂いて、何か穢らわしい感じがしたんです。
そしたらその上に、グリンピ-スですかね、あの小さな青い豆をぱらっと撒いた。 そしたらその穢らしいと思ったのが、生き生きとしてきたんです。何か鍋のかすりものじゃろうかといったような感じだったのですね。洋食皿に盛ってあるのが。
何か汚らしい感じがしたけれども、その上に何か青いグリンピ-スをぱらぱらと撒いたら、その料理が新鮮な、何とはなしに食欲をそそるような感じに見えんです。
皆さんもそう思うて見てください。そうでしょうが、あのグリンピ-スというものは別においしいものじゃないけれども、ぱらぱらとかけて、それで料理がこう生きてくるわけです。どんなに素晴らしいおかげを私は、それをどういう意味じゃろうかと思うて、思うたんですけど、今日のこの六十二節を頂いて、わが身の上におかげを受けてとは、まずこういうおかげを頂かにゃいけんです。
例えて言うと、家庭が円満であるとか、お金に不自由しないとか、大きなお家に住まわせて頂いて、商売繁昌をしておると、まあおかげですよね。
素晴らしいけれども、主人がいつも病気をしておるとしたら、どうでしょうか、そのおかげはおかげではないように見えるでしょうが。
家庭も円満ですよ、商売も繁昌しているのですよ。例えば、立派なお家に住まわせて頂いて、何かに、おかげ、確かにおかげ頂いとるです。けれども、なら、そこの御主人が、いつも病気をしておるという事では、そのおかげが料理ならきたならしゅう見えるけれども、折角のおかげがおかげらしく見えないです。
あそこはそうなお金は持ちゃるばってん、ず-っと寝て、寝たり起きたりしてござるならというふうにしか見えん。ですから何というても、そのまず、壮健であること グリンピ-スという事は私は、生き生きとした、青々としたまめ、健康の事だと思いました。壮健で丈夫でとこう申しましょう。
そのまめであるという事なんです。その壮健であるという事が、第一なんです。
それが頂いておるおかげを生き生きと引き立ててくれるわけです。いわゆるおかげをおかげと思わせねばおかん、又はおかげを誰が見ても、そう感じる。
又は今度は健康でもある、今度はね、商売も繁昌しておる。立派なお家にも住む程しのおかげを頂いておるけれどもです、内輪が冷たい家庭であったらどうでしょう。 内輪が冷たい家庭であったらどうでしょうか。内輪が親子の間がスム-ズにいかない。夫婦の情が円満でなかったら、どうでしょうか。これは私は、心が壮健であい証拠です。心が健全でない。心が楽でないとすると、折角健康であり、おかげを頂いとってもそのおかげが、あの家は繁昌しよるし、儲けだしてもござるが、あげん内輪が冷たいなら、とこういうたら、もうその折角のおかげがおかげになっないです。おかげに見えない。
いや頂いて、実際おかげも頂いておる。食べりゃおいしいです。けれどもそれに、グリンピ-スがかかってはじめて、あの生き生きとした、食欲そそるような、いうならば、やっぱりあっちは信心してござるけん、家もどうでも信心せにゃいかんばい。 脇から見ても言うたり、思えるたりするような、おかげを頂く為には、まず、グリンピ-スが必要だ。ここは心です。心が生き生きと、心が傷ついておったり、心が病んでおってもいけないという事。
そこで心が病んでおるとか、という事なんかでもですね、あの何というでしょうかね、人が幸せになって行っておるのをね、うらやましいと思う時にはもう、心か病んでおる時です。ですからああ、自分の心の病んでおるところを、まず気づかせて頂いて、本当に人の幸せを祈れる心の状態になるところまで、高めなければいけない。
それは自分が不健康であるならば、何かどこに不健康の元があるかというと、いわば、察知するというか、医者なら医者にそれを指摘してもらって、そこのところを養生せねはならないように、これは肉体の上に於いても、心の上に於いても同じような事が言えます。
もっと、まあだ、心が病んでおる。心が傷ついておる事は、他にもいろいろあります。いらいらしたり、いつもプリプリ腹かくごたるでは、まだまだ、心が健全でない証拠です。心が豊かにない証拠です。
私は今日、この六十二節の人よりわれは、なおよけれと言うておるが、まずわが身の上におかげを受けてとおっしゃる。おかげを受けておるけれどもです、いうならば食べればおいしいのです。私が御心眼頂いた、それが見ためにです、何か穢らしい感じを、けどそれにグリンピ-スを、心がまめであると言うか、又は身体がまめである事によって、その料理が生きてくるように、おかげが、おかげたらしめるという。
おかげを、おかげとして人に現していけるという。そういうおかげを頂く。
※ ※ ※ ※ ※ぬ 昨夜は合楽会でした。その中でも話した事ですけれども、信心しておりますとね、とても、そういう事は思えない程しの事が思える。
とても、そういう事が出来ないと思うような事が出来る。まあ例えてそれを言うと私を妬んでおったり、憎んでおった人があるとしましょうか。けれども、それが私が妬んだり、憎んだりしておる人を、もう本当に幸せになられるようにと、祈ったり、又、実際に、形の上にでも、それをなして行けれる心が起きてきたり、そういう事がわれを、わが心が拝みたい心。ですから信心をさして頂いておりますとね、こういう事は思えないような有難い事ですよ。
こういう思えるようになり、こういう事が出来るという事、有難い事なんです。
有難い事が出来るという事が信心の値打ちです。心が健全でなからなければ、心が病んだり、傷ついておったりしておってはです、向こうが向こうなら、こっちはこっちだというような事しかなってこない。
それでは信心を頂いておる値打ちはない。けれどもお互いの場合、厳密に自分の心というものを、段々わからせて頂く時にです、成程、神信心も一段上がっていく、手習いも同じ事ですから、そういう自分の心の中に、病んだもの、傷ついておるもの、そういうものを発見して、それを癒して行く事が一段々出来て行くという事でございます。
どんなにお店が繁昌しております、どんなに立派なお家に住んでおりますと言うてもです、例えばそこの主人が、いつも寝たり、起きたりをして病人であるならば、折角頂いておるそのおかげが、もうおかげに見えなくなってくると。
どんなにお店が繁昌しておっても、どんなに立派なお家に住んでおっても、健康であっても、家の中が冷たかったり、争い事が絶えなかったならばです、折角頂いておるそのおかげが人にも、そのおかげを現す事が出来ない。
あっちはおかげを頂きござるかも知れんばってん、あなた方のごと年中、親子喧嘩があるごたるなら、そりゃおかげちゃ言わん。おかげ頂いとってもおかげちゃ言わん 又、見えない。だから何と言うても今日はここで、人よりわれは尚よかれと言うておるおかげ、まずわが身におかげを受けてというおかげはです、まず健康のおかげを受けなければならないという事。
まず自分の心の、健康、心の健全を頂かなければ、折角頂いておるおかげがおかげに見えなくなってくる。そこんところを一つ聞いて頂きました。
どうぞ、も一つ、心の健全、肉体の健全、いわゆる何というても五つの願いの第一にありますように、体の丈夫を願えとこうおっしゃる。まずは体が丈夫でなければならないという事。次には信心は家庭に不和のなきが元とおっしゃる。
何をするにも体が基なりと、おかげをおかげたらしめる為には、まず、その基であるところの二つのおかげを本当に頂かにゃいけん。
まず何をするにも体が元なり。信心は家庭に不和のなきが元なり。この基を頂く事によって、次から次に頂く行くところのおかげが、おかげに見えてくる。どんなにおかげと・・・・・食べてみればおいしいけれども、見た目に穢らしゅう見える料理であってはいけない。
食べてみればおいしい、やっぱりおかげはおかげ、それに、ぱらっとグリンピ-スを撒いたらその料理が生き生きとして、食欲をそそる程しのものに見えてきたというように、勿論、グリンピ-スという事は、まめですから、心が壮健である、健康である。健全な心であるということ。同時に肉体が健康であるという意味なんです。
私が今日、お知らせ頂いた事を、この六十二節と合わせて、そのようなふうに聞いて頂いたわけですね。
どうでしょうか今、私共が難儀をしておるものが頂けたとするか、不健康の人が健康のおかげを頂いたとするか、金に不自由している人が金に恵まれたとしますか、その時に、果して、自分の心が健全か、肉体が健康がという事を思うてみて、そうでないならば、折角頂いたげも、おかげとして、世に現して行く事が出来ないのですからいよいよ、二つの願い、体の丈夫を願い、家庭に不和のなきが元というところをいよいよ重点においての、またそのおかげを、まずは頂かねばならんという事を聞いて頂いたですね。どうぞ。